カジュアルなプレイについて少し踏み込んだ事を書きたいと思う。
その前にまずカジュアルの定義について整理しておきたい

■MTG wikiより 「ティミー、ジョニー、スパイク」
http://mtgwiki.com/wiki/Timmy,_Johnny,_and_Spike

上記はMTGの例だが、このプレイヤー分類はMTGに限らず様々なゲームや趣味においても概ね成り立つと思う。ここでのカジュアルなプレイヤーとはTimmyとJohnnyである。
TimmyとJohnnyの境目については曖昧ではあるが、周囲を「ビックリさせたい」「楽しませたい」、周囲に認めて欲しい、自身に課題を設定しそれをクリアしたい、等の気持ちがあればそれは既にJohnnyであると思う。

筆者は過去に他TCGで動画投稿をしていた頃があったが、当時は自分自身もその界隈の人たちも皆Johnnyだった。
ここではカジュアルプレイヤー=Johnnyとして扱うことにする。
Johnnyは周囲から評価を得たいカジュアルプレイヤーだ。

では本題。
カジュアルなプレイとはどういったものか。

■非常にハイコンテクストな遊び方である
【ハイコンテクスト / はてなキーワード】
ある文脈(コンテクスト)の抽象度が比較的高いこと。High context。
あうんの呼吸が通用すること。察することのできること。

概要
ハイコンテクストな分野への参入において「その文脈(コンテクスト)」や「必要不可欠な事前知識・経験」が欠如している場合、なにがなんだか分からなくなってしまう。そのため、ある程度閉鎖的な文化や社会において起こりうるが、その文脈や定義を論じたり再定義する必要性が低いため、意思疎通が図りやすく、微差な情報で楽しむことができるというメリットもある。


経験はないだろうか
カジュアルに遊ぶ際、それがいつもの気の知れた仲間であれば問題なく楽しい、しかしそのコミュニティ外で遊ぶといくつかの許容し難い違和感を感じてしまう。
つまり、カジュアルな遊びには暗黙のローカルルールが存在している。コミュニティ毎にローカルルールが存在している為、一歩自コミュニティを出た場合に同様に楽しむことは難しい。何故そうなるのかを更に踏み込みたい、ここでのカジュアルプレイヤーは周囲から評価を得たいプレイヤーだ。

カジュアルな遊び方で評価を得るのは難しい、何故なら明確な評価基準が無いからだ。(ちなみに競技プレイは明確だ、勝負に勝ったプレイヤーが正義、負けたプレイヤーが悪。)
カジュアルな界隈で評価を得たい場合は下地前提が必要になる、それは文化と言い換えることも出来る。例えば何の前提知識も持たない集団がピカソのゲルニカを見ても子供の落書きと区別がつかない、だがピカソが優秀な画家であること、その絵がスペイン内戦中に描かれその歴史背景を象徴していること、等を知っている場合にゲルニカを評価することが出来る。つまり文化と組み合わせることでゲルニカを評価している。そして、そもそも「芸術が歴史背景を内包していること」が評価基準になることすらも誰が定めたかも分からない評価基準だ。
つまり、「こういうことを良いものだとする」という認識が評価者の間で育まれないことには成り立たない、近代のサブカルチャー全体においてもその「認識の育成」は日々行われており、それは小規模であるが完全に文化である。

コミュニティ毎に文化が形成されてしまっている、これがローカルルールの根源だ、この課題に対してカジュアルプレイヤー達は様々な方法で抗っている。
●ローコンテクストへの変換
曖昧なもの、分かりにくいモノであれば全て説明してしまえばいい、という発想。そこで作成過程等を伝えきることで歴史背景をある程度補完し、瞬間的に論理形成することで文化を再定義させる。
●文化の統制
コミュニティ間の文化を統制しローカルルールを単一化することは可能である、例えばSNS、キュレーションサイトで情報に濃淡をつけ印象操作する等。

■なぜカジュアルなプレイについて論じたのか
そもそもな話、なぜいまカジュアルプレイについて論じたのか。
それは「カジュアルプレイ=ゆるい、気が楽」というイメージが世間一般のイメージとしてある気がした為。
カジュアルプレイヤーにも様々な心労や苦労があり、競技プレイよりもモチベーションの保ち方が難しく、コミュニティ依存であるが故の不安定さとは付き合い続けなければならない。閉鎖的であるため、一歩間違えれば孤独になり、その趣味を破棄しなければならない時が来る事もある。その実情を競技プレイに身においている側として記述しておきたいと思った。

今日はそんな感じでした。

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